やはり葵の御紋があると身が引き締まりますね。
東京大仏のある乗蓮寺ですが現在は赤塚にありますが元々は仲町にあったそうです。仲町は大山と中板橋の間ぐらいですね。そこから江戸時代に一度仲宿に移転して、首都高が出来るのでこの赤塚に移動してきたとの事で現在は赤塚山慶学院と称されているそうです。
こういうところに来ると、案内板って重要ですよね。乗蓮寺の成り立ちが記載してありますが知っているか知らないかで重みが違いますよ(笑)
後で知りましたが板橋信濃守忠康の墓がある、と書いてありましたが板橋信濃守忠康自体を初めて知りました(苦笑)
調べてみますと武蔵豊島氏の一族で幕末まで旗本の家系だった板橋氏の方で江戸時代になる前に亡くなったそうです。鎌倉時代には『板橋』の地名があったそうなので地名からお名前になったんですかね?
山門には4体の像が参拝客を見守ってくれています。
お寺側から見て右側には広目天尊像が鎮座されています。右手に筆、左手に巻物を持っています。武器を持たず戦う神様ですね。
左には多聞天がいらっしゃいます。多聞天は四天王と言われる神様のリーダーです。毘沙門天も同じ神様ですよね。
仏像は種類がたくさんあるのでこういう風にお名前を書いていただけるとありがたいですね(苦笑)誰だかわからないとご利益も半減しそうです(泣)
この山門には徳川家の家紋であります葵の御紋が入っています。
先ほどの案内板にも徳川家康から朱印地を与えられている、と書いてありますし徳川吉宗が鷹狩りの際に雨宿りした縁で将軍家が鷹狩りをする際の御膳所になった、と書いてありますから徳川家とのゆかりも深いんでしょうね。
最近歴史について学ぶ事が多いので葵の御紋は『おお!』となりますが、それ以前でしたら水戸黄門の印籠のイメージしかなかったかもしれないですね(苦笑)三つ葉葵は江戸時代に徳川御三家しか使用出来ない紋でしたから印籠を見せると『ハハーッ』となるわけですよね。
そして山門の反対側には阿吽の像が参拝客を見守ってくれます。
やはり阿吽の像があると何か安心しますね。子供の頃は怖かったですが、今は安心感を覚えますね♪
阿吽の像など鎌倉時代からある像を見ても筋肉がバッキバキになっていますが、昔の人でそのぐらいバッキバキの人っていたんですかね?モデルもいなくてこういう像が作れるとは思えないな、とちょっと思ったのですが昔の人は栄養なども不足していたでしょうからこんなボディビルダーみたいな筋肉を作るのは大変だったでしょうね。
なかなか楽しかったのでまた暇を見てこのあたりを散歩したいと思います。
所々にこんな感じで観光地図があったりするのですが、今回の場所より北側は道が整備されていて、今いる辺りは比較的ごちゃごちゃしているのがわかりますよね。
高島平団地があるのが整備されている部分ですが、このあたりは湿地帯だったそうで近年になってから埋め立てされて整備された場所との事ですね。確かに整備されているところからこちらに向かう際には坂があって、こちらの方が標高が高い場所になっています。赤塚城があったのもこの高台のところですので湿地帯から崖を上っているのは難しいでしょうから守備も万全だったと思います。
最近ある程度板橋の知識レベルが上がってきましたので今度は郷土資料館に勉強しに行こうかと思っています。地元の事をもっとよく知ると楽しいですよ♪